MeM0

おそらく好きなコンテンツの話か雑記

「融けるデザイン ―ハード×ソフト×ネット時代の新たな設計論」読了

融けるデザイン ―ハード×ソフト×ネット時代の新たな設計論
渡邊恵太
ビー・エヌ・エヌ新社 (2015-01-21)
売り上げランキング: 3,904

ハードウェア、ソフトウェア、インターネットが融け合う時代に必要とされるインターフェースを、どう設計していくかというテーマの本。今の生活でもインターネット=ウェブだけではなく、インターネットが生活にアクセスしてくるようになってきており、身近にもウェアラブルバイスやIoT等でその一端が垣間見えている。この本では画面の中のデザインのような話ではなく、コンピュータとインターネットをどう人間の身体や活動に結びつけるかという観点から考察していき、インターフェースの本質を探ろうとしている。

インタフェースとは何か?

認知や意識が自然に、また無意識的に起こることの比喩として「透明性」という言葉を用いて、インタフェースについて述べられている。道具に問題が発生すると、その道具が意識に上り、それ自体を対象として扱うことになる。しかし、道具に問題が起きなければ、それ自体は透明性があり、例えばキーボードでは「文章を書く」ということに集中できる。何となくだけど、アナログツールはここの透明性が高いので好む人が多いんだと思う。
あと、このあたりの話はモーダル&モードレスの議論にも通じる部分があると思う。Adobeのソフトも、マウスカーソルを用いて選択ツールを選んで、オブジェクトを選んで〜とやっていると、自分が何のツールを選択するのかということが頭に浮かんでしまうが、ショートカットを多用してその手順を省けるとオブジェクトに集中することができる。
http://modelessdesign.com/modelessandmodal/2009/09/11/analog/

また、インターフェースの重要性についてコンピュータの役割から述べられており、コンピュータは万能性を持ってるけど、その万能性を一般の人にそのまま提供しても「何でもできます」は何も提供していないのと同じになると述べられている。そのため、この万能性を適切な体験として提供できるように役割を設計(デザイン)することが必要になってきている。そう考えたときに、「人間にとっての」コンピュータの性能はインターフェースであり、インターフェースを変更すると人々の行為が変わると述べられている。

情報の身体化

著者はギブソンアフォーダンスから着想を得、Visual Haptics等を製作し、カーソルというバーチャルな存在でも自身の身体の延長として扱えるのかといったことを研究してきた。その後、そもそも人間はカーソルをどう捉えているのかという発想からダミーカーソル実験を経て、CursorCamouflageを製作する。これは見た目は同じマウスカーソルが大量に動いている中で、自分のカーソルを認知することが可能であるというもの。ただ、周囲で見ている人間からはわからない。この同じ画面を見ているのに、わかる/わからないという正反対なことが起きているという着目点が面白い。これはいわば「やってみないとわからない」ということであり、インタラクション設計は「やってみないとわからない」「やってみること」の現象の質をコントロールすることにある言われている。そしてその現象が「体験」である。

自己帰属感

透明性の正体は「動きの連動」がもたらした、自己感、自己帰属の結果であるのではないかと考えられる。そのためUI設計の「自己帰属感」という軸があるのではないかと著者は述べている。この発見が読んでいてとても面白いと思った。

例として、「iPhoneGUIはなぜ気持ちいいのか」を説明されており、とても腑に落ちた。物理的な概念がないため使いづらいと思われていたタッチスクリーンGUIにおいてiPhoneが受け入れられたのは、操作に対する応答速度や、ソフトウェアキーボードの視覚的フィードバックや、反応領域のしきい値調整などの、自己帰属感を高める作り込みがされていたからだと。そのため、操作が透明になり、情報に直接触れているような感触を与える。他のタッチパネルの家電等が今ひとつ使いづらいとしたら、自己帰属感を得られるほどの作り込みがされていないということだと思う。

また、アニメーション自体には自己帰属感がないとの指摘もなるほどと思った。昔からアニメーションが多いシステムはうざったく感じるということはよくあったが、その原因はここにあったかと。ブラウザのスクロール等はアニメーションに見えるが、アニメーションとして捉えてもっと変化させようとすると、ユーザーから見れば自分の意識との連動が途切れてしまい、事物的存在となってしまう。ただ、アニメーションは悪ではなく、状態を示したり、ナビゲーションと機能するときに価値が生まれる。

ゲームの自己帰属感

ここから個人的な見解だが、自己帰属感が最も頭に浮かぶのがゲームである。カーソルから進化したようなキャラクターが画面の中に存在し、そいつをコントローラで動かして、箱庭世界を冒険したり、クリボーを踏みつけたりする。そこにいちいちキャラクターが事物的存在としてなって意識に登ってくると正直遊んでる場合ではないと思う。

個人的にそのように意識の連動を妨げることをできるだけ少なくしようと進化してきたゲームとして、ゼルダの伝説シリーズが思い浮かぶ。昔のシリーズはABボタンにアイテムをセットして、それぞれのボタンで割り当てたアイテムを使うというシステムで、違うアイテムを使おうと思うとメニューを開いてアイテムをセットし直すという作業が必要になる。 image

これがWiiで発売されたのスカイウォードソードになったとき、剣を使いたいときはリモコンを振るという動作になり、サブアイテムはBを押しながらメニューを出し、その方向にリモコンを向けるというキャラクターの動きを妨げないように進化している。(すぐに確認できないのでもしかしたら違うかも…)

本から離れるが、ゲームの場合クリアすることが大事で、そのための情報を手に入れるための努力を惜しまない側面がある気がする。「モンハン持ち」はその最たる例で、ユーザにとって重要な情報は何かってなったとき普通じゃ考えられない持ち方が生まれるのも面白いなと思う。ここまで書いてなんだが、これゲームに限ったことじゃないかも。

image

まとめ

かいつまんだ引用が多くなってしまった。少しでも興味があれば全文読んでください。この本インターフェースに関してかなり知見得られるのでその界隈に興味がある人にはとてもおすすめ。情報とどう関わるかを考えたときに、自分の意識の所在のようなものを考えたりするという視点はとても参考になった。UXがHCIからの流れを持って書かれていたり、ギブソンの生態心理学の概要が載っていたり、今からインターフェース学ぶなら教科書的な内容でもあるのではないかと思う。